2010年1月30日土曜日

鍋の会


鍋の会をしてみました。


来てくれた人、ありがとうございました。
招待されたのに料理を自分で作る理不尽に、良く耐えてくれたと思います。

主菜は、鳥団子のちゃんこ鍋でした。
セロリの炒め物はおいしいんですね。

また、主な議題は、体毛とむだ毛を剃ることと衣服を纏うことの効率についてでした。


これに懲りなければ、定期的に試みようと思います。


宴の席での小道具のひとつ。
明和電機のオタマトーンです。
http://maywa.laff.jp/blog/2009/08/post-9249.html

持ち主は買ったっきりで、ほとんど触ってないのです。
久しぶりに音が出せて、彼らも満足そうな顔をしています。

2010年1月27日水曜日

束縛と上納金

無粋なたとえ話だけど、たしか、誘拐事件の心理分析か何かで、被害者が犯人にこれ以上危害を加えられないと分かった時に、犯人に感謝の念を抱くことがあるらしい。


携帯電話の機種代金の、24回ローンがもうすぐ終わる。
長年愛用していたNokiaの、二台目である。

Nokiaは、使い勝手が良い。
使用方法を考え込まなくてもいいのがうれしい。
よく分からないけど妙に高性能なカメラで、一応音楽も聞けるし、旅行中も大活躍だった。


残念なことに二台目のNokiaには初期不良があった。
振動で電源が落ちる。
僕は常にマナーモードなので、電話の着信を受けても振動でシャットダウンされて、着信履歴にも残らない。


携帯電話の機能を果たしていない気がするので、販売店に持って行ったところ、店員さんの前で問題がなければ問題がないという解答をもらった。

お客さまは神様じゃないのか、とも思った。
しかし、認識の点では、全く正しい理論である。
僕には、問題があるが、店員さんには、問題はない。
見解の相違というだけで、店員さんが間違っているわけではない。

この論破は、鬼ごっこのルールをくつがえすより難しい。
少なくとも、文学部でなく法学部に任せたい。

こういうとき、だいたい僕の持ち物は、生みの親に味方する。
昔、ゲームボーイの充電器が接触不良を起こした時も、修理を願い出たおもちゃ売り場の店員さんの前ではなんら支障無く作動した。
子供心にゲームボーイを恨めしく思ったわけである。


じゃあせめて機種変更すれば良いわけだけど、携帯電話の契約は複雑な制約があって、26ヶ月だか使い続けないと、割引がなくなる。
もともとの本体価格を払わなければならないらしい。
無駄に高機能なケータイで、およそ6万円くらいであった。
解約にあたる違約金などなど、下手に解約も出来ない。
IT分野に関心の高い人たちは、このような費用を総称して上納金と呼ぶらしい。

全ては、購入の時に初期不良を指摘できなかった僕の不覚だ。
山手線では、懇切丁寧に傘の忘れ物まで教えてくれるご時世である。
しかしながら、ことケータイ業界は一転して自己責任を重んじているらしい。


そんなわけで、途中海外に居た分を差し引いても1年以上は電源の落ちるケータイを使いつづけたことになる。
内定に至らなかった就職先も、もしかして僕に電話していたんじゃないかと、邪推したくなる。

2010年1月20日水曜日

「ザ・前座修業」

「5人の落語家が語る ザ・前座修業」
稲田和浩・森田梢路 NHK出版生活人新書 2010

落語の世界の前座修業を語った本。
「特殊な社会の特殊な修業話とはいいきれないはずである。あらゆる職種での新人たちに、なにかのヒントを残してくれるはずだ。」と新人向けをうたっている。
身の不始末をなんとかしようと思っていた矢先、何か、すがるようにして買ったものと思う。

お説教の香りがして、直立不動の姿勢を強いられている気がする。
だから読んでいて楽しくはない。
それに不勉強だから、五人の落語をよく知らないのでイメージできる幅が少ない。

ただ、前々から興味のあった落語家の修業時代が、より身近になったのは確か。
寄席での前座の仕事も分かりやすく描かれている。
芸に取り組むそれぞれの姿勢の違いも面白い。
「芸は砂の山だ・・・当人は、上がっているつもりで一歩ずつ歩いていても、じつは足下から崩れていっている・・・」(円生)とか、ちょっといい。

どう読んでいいか分からないけど、例えば飲み会で年長者の意見を聞いて、ほんまかいなと思ったりもっともだと思ったり、じゃないかと思う。

帰って来たらまず寄席に行きたいと思っていたのに、行く勇気がでないまま半年。



柳家小三治、三遊亭円丈、林屋正蔵、春風亭昇太、立川志らく(敬称略)

2010年1月19日火曜日

「ヤクザが店にやってきた」

宮本照夫著 朝日文庫 2000年

人の話を聞かない人は苦手だ。
なぜなら僕が人の話を聞かないからであり、会話にならない。
腕力に物を言わせる人も嫌いだ。
昔、結婚披露宴のアルバイトで同僚に蹴られて痛い思いをした。

さて、この本はヤクザや暴力団と対峙する一介の飲食店経営者の物語だ。
想像だが、暴力団の人々は上に挙げた二つの性格を兼ね備えている様に思う。
実のところ、あるいは用心棒として、あるいは言いがかりを通じて、水商売の人々に関係を持とうと日々干渉があるらしい。

著者は複数の店舗を経営している。
いさかい事の数はそれだけ多い。
そのうちの一つだったと思うが、麻布に出店された焼肉店には、友人に招かれてお邪魔したことがある。
立地の割に安く、腹も舌も満足する店だ。

焼き肉屋さんの親分が片手間に書いたものだと邪推して、衝動買いしたものの、あまり読みやすい文章は期待していなかった。
ところが、控えめで淡々とした語り口で描き出す出来事の数々は生々しく、司馬遼太郎にも比べたいほどの躍動感があった。

ハイライトは後半の、九州太郎氏のくだりだと思うけど、この人物は関西のある暴力団のトップで、いわば著者の敵役にあたる。
ここに刑事が加わって、三者の微妙な力関係と思惑が交差する。
お互いの身分を越えて、いつしか敵役まで惚れ込ませてしまう著者の背中がシブい。




2010年1月18日月曜日

「アンサンブル自由が丘」

演奏会に行くのは好きではないけど、最近アマチュアの音楽会に行くことが多い。
プロの演奏家が、経歴について伝説の量産と思い出の美化に勤しむ一方で、アマチュアに出来るのはせいぜい腕とはったりと思い込みを磨くことである。
玄人と素人はだから実際、日常の努力の大変さに相違はなく、聴衆への感動の提供という点で上下がないと考える。
なんか最近、漢字が多い。

アマチュア弦楽合奏団「アンサンブル自由が丘」の演奏会を聞きに行った。
関係者じゃないし、人の演奏について批評するのはおこがましいが、物忘れ予防に書いておく。

昨日の合奏団は、プロのヴァイオリニストを指揮者に戴いて、私学の学生オーケストラの首席クラスの奏者が集まって結成されているらしい。
しかも「自由が丘」という地名が醸し出すように、どこか上品な暮らしぶりを想像させる演奏者の面々である。

一人一人の技術はたしかに精鋭だった。
しかも邪推ながら、社会人オケより若いせいか独りよがりな演奏が少ない分、まとまりがあり、演奏の印象は良かった。
その気合いを感じ取ってか、お客さんも満員御礼で、満喫して帰ったように見える。

メインディッシュのチャイコフスキーのセレナーデはCMで使われるほど名曲らしいんだけど、1楽章の冒頭から何度か繰り返される例の部分が、この曲の他の部分と組み合わせが悪いような気がしていた。曲の流れとしてちぐはぐな気がしていた。
今回じっくり聞いて、終楽章の最後の盛り上がりのところでああいう風に折り重なって発展して行くのか、と発見した。
なんとなく、このチャイコフスキーが演奏も一番気持ち良さそうに聞こえた。

人が楽しそうに弾いている姿を見ると、ずるいちょっと交代しろ、と思う。
弦楽器が弾けたら良かったんだけど、チェンバロとかで呼んでもらえないものか。

2010年1月12日火曜日

「異邦人」

カミュ著 窪田啓作訳 新潮文庫 1942


タイトルの、お馴染みの「異邦人」という訳語はかっこいいと思う。
この、歯切れの良い題名と、フランスの小説で舞台設定がアルジェリアらしい、とか断片的な知識をもとに、外国人が放浪する小説だろうと当たりを付けていた。

原題はフランス語で"l'etranger"だそうだけど、英語なら"the stranger"だろうから、どちらかといえばこの語感は「よそ者」とか「つまはじきもの」とか奇人変人のニュアンスが強いんじゃないか。

一時期、本屋さんの販促用コピペ書評に、「太陽のせいで人殺しをするなんて、最高にかっこいいじゃないか」みたいな紹介文があった。
正確に覚えていないので文句を言うのもどうかと思うんだけど、なんとなくこういう書評にのせられて買いたくはないなあと敬遠していた。
本棚をひっくり返したら出て来たので読んでみたが、読後も「かっこいい」については共感が湧かない。
少なくとも文中の、「太陽のせい」というのはとても有名な一節らしいとgoogle検索で知った。


この前ブログで感想文を書いたジョージ・オーウェルの「一九八四年」とだいたい構成はおんなじなんじゃないかと思う。
あらすじの前半がオープンな社会での話、後半が閉じられた軟禁の話。
実社会と主人公のあいだの溝、という主題も多分おんなじ。
ということを論じている人も多分いるだろうと思う。
ただ、カミュの方が展開が濃く生々しいお陰で、読み飽きるということは無かった。
それに、実に健康的な小説で、ストレス解消になる。
テンポ良く物語に引き込まれたし、結末の司祭に対する罵倒なんか爽快だった。
といったら気分を害する人もいるだろうけど、宗教を嫌ってはいない。

文学の世界でも音楽の世界でもそうだけど名作に手を出すとだいたい火傷を負うことになる。
手を出すというのはつまり鑑賞目的でなく演奏なり批評なりで自ら手を加えようとすることを言おうとしているのだけど、じゃあヘタなブログなんか書かなきゃいいじゃないとも思うけれどもその逡巡が勝手にできて内容に責任がないのがこのブログの利点ではある。




mixiの話題

このブログはBloggerというツールを使わせてもらっているので、mixiについて書くのはどうかと思った。
けど、このブログ自体はmixiを通して読んでくれる人が多いだろうし、なんとなく、そんな気分なので。


画面のテーマが決められるようになったらしい。
正月に旧友のホームページを開くと、何やら全体に緑がかったデザインになっていた。
別の友人のページは黒い配色であった。
真似してみたくなったが、ここで問題になるのは、普段あまり使っていない人が好みのテーマを選ぶのは出過ぎたマネなのではないかということ。
ただ、別の見方をすれば、本当にmixiを使い込んでいる人はあくまで元祖のデザインに固執する可能性もある。
そういえば、昔black googleという画面の黒いgoogleがあって、ディスプレイの明度の関係で省エネになるというふれこみだったけど、ああいう配色のi-googleが欲しい。
まだ無いんだろうか。
黒はかっこいいし照度が低い方が眼が疲れないように思うのだけど。


「アプリ」とかできたらしい。
友人の牧場に虫がわいたとかで、助けを求められている。
殺虫をしろと言われても僕は自宅のネズミの駆除にも手こずっている。
それに、最後まで面倒を見られないなら初めから手助けなんかするなと釜じいも言っている。


外部ブログと同期できるのは知っていたんだけど、twitterを同期させると、発言のたんびに新着記事になってしまって、なんとなく本来のこの機能の目的と離れるんじゃないかと思う。


と、こうやって書いてみると、文体などにmixi的空気があらわれるような気がする。
ちょうど全身ユニクロとかそういう特別な気分と近い。

僕にmixiを紹介してくれた友人はどうも結婚するらしい。
欣快の至りである。おめでとう。
友人が次々と世にはばたいて行くのを見ながら、花を買い来て相方と親しむことにする。

群馬のバス事情

かつて、「住みよい街づくり」を目指した身としては、公共交通機関に特別の思い入れがある。
そうでなくても、働く自動車と鉄道は無条件にかっこいい。
それに、自家用車=負債だと友人が言ったのは真実だと思う。
正月早々、スタッドレスをパンクさせてしまい、二万円近い出費を余儀なくされた。
公共交通なら、事故の場合でも不満を言うだけで済むのがありがたい。


さて群馬県の実家あたりは、車がなければ何も出来ない。
貧乏学生の頼みの綱は、バスである。

しかし、
1、無闇に駅前を走っているが何処を通るやら分からぬ「ぐるりん」
2、放置されて錆び付いたレトロなバス停
3、乗客の居ないまま通りゆく大型車両

という状況をみるに、大方、たぬきときつねが主な顧客だろうと思っていた。
そう考えると、「ぐるりん」の市内循環が人口密集地ではなく山間地域に向かうのは納得がいく。


群馬県バス協会「バスねっとGUNMA」

これすごいです。
なんと、各社の時刻表が一覧できる。
NAVITIMEもびっくり。


これによると僕の実家へのアクセスは、
群馬バス「安中市役所行き」、「権田行き」、ぐるりん「少林山線」の三路線あり、
20分から30分に一本くらいは走っており、
始発が上下とも7時台、終バスは上り19時台、下り21時台だということが分かった。
所要時間20分で200円。
タクシーなら15分だが1300円だし、40分かけて歩いていたことを思えば、悪くない利便性である。

ちなみに、共通バスカード「ぐんネット」も存在する。
上信電鉄、群馬中央バス
関越交通、日本中央バス
群馬バス、永井運輸
で使えるらしい。
プリペイド式で価格によって1割強の割引サービス。
県内の独自規格らしい。


寒空に、来るか分からないバスを待っていると、旅情が漂ってきます。
駆け足でバス停に向かって、時刻表と時計を確認する。
時刻が信用ならないことを思い出す。
バスが来たときの安心と、運転手が悪人の場合を想定した場合のこのまま山に捨てられるんじゃないかという不安。
なんとなく、イタリアのルーズな交通機関を思い浮かべて、和む。

乗ってみませんか。

2010年1月7日木曜日

「官能小説の奥義」

永田守弘著 集英社新書 2007年

奥手だったので、「官能」という単語の意味を理解するのは中等教育を終えるころだったんじゃないかと思う。

何しろ、漢字の組み合わせから意味が想像しにくい。
広辞苑を引いてみる。
「官能」の「官」は、1:おおやけの建物、2:太政官の略、3:役人。またその役目。・・・と続く。
人間の生理について言及されるのは、末尾の5番目である。
「官能」の「能」は、1:物事をなし得る力、2:作用、3:得意とする所・・・と続いて更に、芸能の一種や地名の略称などと説明されている。

そんな事情から、差し迫って必要な時期に、官能小説は縁遠い存在だった。
テーマについての関心は人一倍高いが、いわゆる文学作品にも濡れ場はたくさん出て来る。
世間体とプライドと需要のバランスを取りつつ、青少年期の必要を間に合わすことはできていた。

そもそも、「官能小説」は文体が特殊である。
すんなりと読み下せない。
結果として、いわば、敷居が高いということになる。

文体の何が特殊か。
まず、台詞と擬音語が気に入らない。
肝心の具体的な箇所において、登場人物たちの、例の「言葉にならない発語」の記述が安っぽいことは、音読してみれば分かる。
擬音語も多用されるが、どうも平仮名なり片仮名なりの音声がそのまま頭に思い出されて、具体的な感覚と結びつかない。そもそも小説の世界では擬音語の多用は軽視されるんじゃなかったかしら。

 一方で、本文の語彙が難しい。画数の多い漢字を組み合わせて、未知の単語で織りなされる文章は、作家たちの苦心の賜物だが、妄想を巡らして文中から情景を思い浮かべるのは読み手たちの苦心の賜物でもある。

結局、よほど努力して感情移入しないと、文章から身体的リアリティを引き出して、要求を満たすことが出来ない。

今回、この本が本屋さんに平積みになっているのを見て即座に手に取った。
著者はみずから提唱する「純官能小説」ジャンルを一万冊以上を読破したとあって、分析が鮮やかである。
豊富かつ的確な引用が多数、掲載されている。
上に書いた、特殊な文体の必然性についても触れられている。
文体が妥当かどうかは、まだ追求の余地がありそうに見えるものの、ひとまず、官能小説たちを身近に引き寄せることは確かだと思う。

名場面の無数の引用のお陰で人前では読みにくい。
立ち読みを断念し購入に至った。
さいわい新書の形で販売されている。
知識の獲得を表に掲げながら享楽を求めるという目的にも適う。

ただし、あくまで分析に重きを置いて、官能小説の魅力を噛み砕いて表現している本であるので、実用性にはかけるかもしれない。


ちなみに引用の中では、永井荷風の著と紹介される作品の一節が、すごい。

「・・・開中は既に火の如くなればどうにも我慢できねど・・・」
孫引きしてみる。

「一九八四年」

ジョージ・オーウェル著 高橋和久訳 早川書房 2009年

 「読んでいないのに、見栄によるのか礼儀によるのか、読んだふりをしてしまうという経験は万国共通らしく・・・」という文言で、「訳者あとがき」は始まる。
 また、巻末にある解説の冒頭には、「※この解説には、本書の結末に触れる部分があります。」とネタバレに対する丁寧な断り書きがある。

 以上のことから、この本は、最後まで読み通すのが困難であるということが分かるだろう。
 実のところ、読み進めるには多大の労力を要する。
 特に、物語中で禁書とされている、『あの本』の内容が記されたあたりは、何度も読むのが面倒になり、しまいには読み飛ばしながら話の本筋を追った。
 素直に話を読み進めていったとしても、後半の拷問シーンは読み手にも重荷を強いる。丁度、フルマラソンを走った直後に箱根登山を駆け足で強要されるような気分に近い。

「二十世紀世界文学の最高傑作」である。
「すぐれた文芸の発信源」を掲げた、「ハヤカワepi文庫」として発刊されている。この出版上の分類方法が、その他の、”epi”を冠さない早川文庫に駄作が多いという暗示にならないか心配した。

 SF小説の定義を知らないが、近未来SF小説っていうのはこんなイメージなんじゃないかと思う。
灰色の時間泥棒が闊歩する世界に例えられるかもしれない。
冬の寒空の東京の、例えば新宿西口あたりで読むと、感慨も深まるはずだ。永田町でもいい。
 ただ、物語の背景が特殊で精巧なわりに、舞台装置の描写がおおざっぱなので、ツッコミの得意な人には、物申したい部分が多いのではないかとも思う。
あんまり斜に構えて読むと良くない。