2009年6月28日日曜日

「まぼろしの郊外」

有名な本らしいです。
援助交際の本です。

近代的「国家」を作る過程で必要であった、「良妻賢母」という建前によって成り立っている「ウソ社会」と、
小学校の先生から国家の役職の人々までをお客にとる女子中高生の援助交際の現実とのギャップを、
「ウソ社会」による性の規制が強化されるにつれて、浸透して見えにくくなっている実際の援助交際の形式を辿ることで、あぶり出して行きます。

トピックは援助交際ですが、
「ムラ社会」に、ある日突然、課せられた近代化という使命とそれに伴う「ウソ社会」という建前、その使命が役目を終えた今、建前と現実とのギャップに若年層がどう順応して行ったら良いか、
また、大人たちはどう若者を導きうるのか、
という命題に対して、
「道徳」や「倫理」ではなく、「自己決定権」をキーワードにひとつの道筋を示してくれます。

社会の不条理に悶々としていた少年の頃に読んだら、
すっきり迷いなくその後の人生を歩んだか、
ますます不条理に頭を抱えたか、
さてどっちだったのだろう。

自分より先にあったものを、どう扱うか、は、処世術の大きなテーマだと思うのですが、
清濁をそのままストックとして受け入れて、その上でうまいことやろうよと、
「父親殺しの都市計画」を糾弾した大野先生は、やっぱりすごいなあと尊敬してしまう昨今。


2009年6月26日金曜日

高すぎやしないか

「柏の葉キャンパス駅」まで、つくばエクスプレスで通っている。
一年乗らない間に値下げされてないかな、なんて考えていたけど、滅茶苦茶に高いままだった。


家から秋葉原に出るまでに、
210円(JR)
秋葉原から柏の葉まで、
650円(TX)
さらに駅から大学まで、
160円(バス)
しめて、
1,020円。
しかも、これは片道のお値段だから、一回毎に買うとすると、一日往復二千円。


さらに計算すると。
学生向けに割引されているはずの定期券が、同じ経路で鉄道2社で、

ひと月20,820円。

片道の電車賃860円で割ると24.2回分だから、
毎週三回通ったとして、やっと普通の運賃と釣り合う。

だから、定期のお得感が出るのは、週四回以上通わなければならない。
しかも、実際は、その間に回数券を使ったりするから、定期券は買ったが最後、毎日使わなければもとが取れない程度の値引額だ。
おかしな話。


高額料金へのささやかな抵抗として、品川=柏で自転車通学を試みている。
家から大学まで、片道三時間。
小休止込みで。
国道15号で都内を北上して、国道6号で柏を目指し、折れて国道16号で柏の葉に着く。


問題は。
千葉の国道は、歩道がないに等しいほど狭い。
車道は片側二車線だが路肩がない。

都市計画では、自転車と電柱と歩道橋と広告物と・・・は存在しないことになっているのだろう。
計画では存在しないはずだったあれこれが、狭い歩道を取り合って、あふれたあれこれが、車道で危ない目にあっている。
特に、大型トラックの運転手に品の悪い人がいたりすると、自転車は社会の底辺の屈辱を味わうことになる。


でも、自転車にもいいことはありますよ。
お金が掛からないし、肌が綺麗になる。
都内であれば電車より速いこともあるし。

この場合、柏まで行って、電車より余計にかかる一時間はどう考えるか。
1、交通費が浮く。
自転車によってかかる費用=燃料費(コーラ)を差し引いても800円くらい余る。
時給換算すると、自転車に乗っているだけでアルバイトした気分になれる。


2、自分の肌を堪能する。
新陳代謝が盛んになるせいか、肌がなめらかになる。
といってもこれで嬉しいのは自分一人だが、不健康な人が健康になっても周りは迷惑しないだろう。
足がむきむきになるのも頼もしい。


そんな、せせこましい事を考えながら、三時間こぎ続けております。
自転車の市民権が向上しないかしら。

自転車通学の直接の原因は、僕は定期を買うお金がなかったからですが、
「自転車ツーキニスト」なるものを提唱している人もいらっしゃるのです。
僕の読んだやつは絶版になっちゃったみたいですが。


「住みこみ」

戸田晃という人が、自分の家の改修を写真や文に書き留めたもの。

今あるものをどう使い込んでいくか、使い込むとこんなに味が出る、なんてことを、子どもとの日常なぞを織り交ぜながら紹介してくれる。

著者は、建築家なのだそうですが。
・芸大の美術科を五年間浪人した強者。
・放浪癖がある。
・ガンジス川の、全てが混沌の空間に、自分の「価値観がシャッフルされてしまった」。
こういうところに憧れる。

僕がヨーロッパ留学中に渇望したことは、おそらくこのガンジス川の光景だと思う。
結局、異国の地にありながら、見慣れた先進国の見慣れた商業空間ばかりを見て帰って来てしまった。
ローマ時代の廃墟も、観光地になればテーマパークかも知れないし。

環境負荷だとかエコだとか、大義名分にはふれていないけれども、日常を大切に生きることの心地よさと幸福感に、とても説得力がある。
衝動買いはお金を使うことに快感があるわけで、「もの」そのものによる満足感というのは、苦労して使い込んで自分の一部に近づけていく道程に生まれるのだと思う。

偶然手に取った本に、出会いがあったのがうれしい。


ちなみに、戸田晃さんのwebサイトはこちら

他人の情事

他人の情事に、何度か出くわしたことがある。
はからずも、だ。
回数にして、たぶん、両手に収まるくらいの数。

直接その場に居合わせたり、痕跡だったり。
最中の当事者も、赤の他人だったり、知り合いだったり。
雑魚寝の安宿で出くわしたことが多かった。
全ての場合に共通だったのは、僕は気づいてはいない、とされている、もしくはそう望まれている、ということだった。
「狸寝入り」という技を覚えておいて良かった。

文化によって、公共の場で許されるスキンシップの度合いは違って来るのだろう。
公然とキスをすることは日本では許されないが、パリなら素敵な光景、ということになる。
ここで僕の話しているのは、情事そのものだが、行為をオープンにしている文化はあるのだろうか。
安部公房の「砂の女」のクライマックスのひとつに、住民がしきりに男女に行為を催促する場面があったと思う。そのあとどうしたか忘れたけれども。

日本は、本音と建前で持っている。
情事なんて、家庭や学校では存在しないものとして扱われているようにも思う。
じゃあせめて、隠れてやってくれよ。

2009年6月18日木曜日

7月5日(日)

お土産の効果

帰国にあたって、頭を悩ましたのがお土産。
つまらないものにお金を払いたくはない。
かといって、目上の方に、小便小僧のコルク抜きを差し出すには勇気がいる。
(小僧の水流の部分がコルクに刺さる渦巻になっているもの)
ピエールマルコリーニは日本でも買える。
(結局買いました)

不登校後の初登校は緊張に満ち満ちていました。
柏の院生室にお茶を置いておくので、飲みに来て僕をかまってください。


留学中の設計演習はこんな感じでした。

この前素足で歩いたのは

古道具屋と骨董屋は違うんだそうです。
骨董品は、品物の付加価値に重きを置く、古道具屋は、道具としての品物そのものに重きを置く、という理解でいいのだろうか。
前者が運気の上がる壺を扱い、後者は梅干しを漬ける甕(かめ)を扱うんじゃないかと思う。
だとすると、「はてなの茶碗」はどちらに持って行ったら売れるのかしら。

この小説は古道具屋の話でした。
変哲もないけど使い込まれて愛着の湧いてしまった品々と、同じようにぱっとさえないけどどことなく趣きのある人々の日々のやりとりが書かれています。

川上弘美の本の、何が気に入っているのか、説明する言葉がなかったんですが、この本の解説を書いた方の意見では、「びっくり文学」なのだと言います。
「びっくり」というのは、「無防備の性感帯」で説明できると解説には書いてあります。
素足の感触のような、気負わない観察眼が共感を呼んで、ひいては読み手の日常をもほぐしてくれるのではないかと思う。
下宿のおばさんを俗物と睨み世の行く末を憂える類いの鋭い視線に晒されずに小説が読めるというのがありがたいのだと思う。
なんか画数が多い。

2009年6月15日月曜日

依存したい


落語家の映画を見たのですが、友人が言うにはその脚本を書いたのがこの本の著者だとのことです。
酒豪なのだそうです。それで読みたくなった。

自らを死に導くと分かりながら、なお酒を絶たない、だめな人が主人公。
インテリかつアル中の、この主人公と、剛胆な主治医のやりとりがメインディッシュだと思います。

アルコールにしても麻薬にしても、中毒の本質は、依存にあるらしい。依存は、生きる根底をも問うらしい。
(ベルギーで皆が吸っていた大麻は中毒性がないらしい。)
表現や筋書きにしっくり来ない部分もあります。それでも、読み手が「真っ青な青年」であればあるほど、どぎつい言葉がひょこひょこ出て来て、スタミナ丼を食べている気分になります。
疲れた時のドリンク剤になるのではと思う。


気に入った台詞をひとつ。

「(死人は)思い出になって人を支配しようとしているんだわ」

2009年6月13日土曜日

冗談の場合

現実世界に帰国しました。
今後ともよろしくお願いします。




ブリュッセルの刺すような青空と灰色の霧雨もいいけど、白けた日本の梅雨模様を眺めながら折り畳み傘を鞄に出し入れするのも、悪くないと思う。
自分の国をしばらく離れてから帰国すると、それもカルチャーショックを起こすのだとベルギーに住む日本人の人から聞きました。
当たり前だったいろいろなものが珍しい。

金欠に付き、寄付ごちそう大歓迎です。


さてと。

2009年6月12日金曜日

「欲情の作法」



本屋さんでは、平積みの本を盗み見ることにしてます。
ふと立ち読みしました。

男性を一匹の精子に例えるところから始まって、女性の口説き方が語られて行きます。
下手な鉄砲よろしく数を撃て、とのこと。
まあ、下世話なんだけどさ。
題名がいいじゃない。

絶望という症状





「うつ病をなおす」
精神病の権威の先生が書かれた本だそうです。

いくつか収穫がありました。


・「絶望」は、症状から来るものであること。

・自然経過で治るものであること。治療は、その経過を促進して、早く改善させようとするものであること。

・思考の順序に偏りのある場合が多いことと、そのほぐし方があること。

・休むことが回復を促すこと。


うつ病は、症状として絶望を感じるのであって、実際に自分が絶望的な袋小路に陥ったのではない、という点が理解できるだけで、心の持ちようが楽になるかもしれません。

また、時間の経過によって治るものであるということは、この症状=絶望がいつか消えていくという希望になります。

うつ病にかかりやすい、決まったパターンの思考回路があるそうです。自分について、一見的確な自己批判をしているようで、その実はある否定的な一面からしか見ようとしないことで、より自分を追い詰めていくのだそうです。物の見方を広げる訓練というのがあるそうです。

うつ病というのはいわばガス欠の車であって、息抜きに何かしようとしてはいけないらしい。休息に専念することが、回復への近道だと書いてあります。


分かりやすく丁寧な入門書が、疲れた時の処方箋になるかもしれません。
努力とか根性とかの精神論でないのも、悲観や憐憫でなくただ事実であるのも、気持ち良い。


ex-同居人にならって、まじめにブログを更新して行こうと思います。